街場のジャニーズ論

嵐の勢いが凄いらしい。嵐といっても、もちろん雨風が激しいわけではない。私は気象予報士でも、シャーマンでもないので、靴を飛ばして天気を予想するのと的中率は大してかわらない。(あるいは、それ以下でさえありうる。)私のブログの天気予報など中居君(smap)のマイク以上に無用の長物である。てるてる坊主を作った方がよっぽど気休めになるだろう。


枕が長くなったが、いわずもがな、嵐とはジャニーズグループの”嵐”のことである。


気づいたときには、嵐の勢いは、私のすぐ身近に迫っていた。ジャニーズにてんで興味もなかろう同僚のカーナビから嵐の曲が流れ、ジャニーズを忌避していた弟でさえ、CDをレンタルしていた。気がつくと、私の新品のカーナビにも録音され、ヘヴィローテーションの仲間入りを果たしていた。テレビがまだ家にあった3年前には、ジャニーズといえば当然smapであり、嵐はどちらかというとパッとしないグループだったので、smapTOKIO・V6・滝沢君の牙城の一角に食い込めるとはこれっぽっちも予想できなかった。過当競争に敗れ、やがては有象無象の輩に成り果ててしまうのではないかとさえ予感していた。ところがしかし、そうはならなかった。(新撰組リアンってどうなったんだろう?)この3年間で嵐に何が起こったのか、いや、嵐がどうのこうのというより、世間がなぜ嵐を必要としたのか、なぜ私は嵐に魅了されたのか、ジャニーズの世界で何が起こっているのか(あるいは起ころうとしているのか)、こうした切り口からジャニーズについて、「よくわからないけど、おもろい」と感じる街場感覚で論じてみたい。


ジャニーズが躍進した背景には、不景気がある。ジャニーズ台頭の折、世はすでに不景気に足を踏み入れていた。特に、光GENJI以降のジャニーズには色濃く反映されている。ジャニーズはいわゆる”不況ソング”を通じて、パブリシティを獲得していったのである。smapが絶頂期の頃の代表作の1つ「ダイナマイト」の一節に次のような歌詞がある。


「心にたまってく 理不尽なストレスを
明日を生きるために 愛に変えてしまえば
Dynamaiteなhoneyでもいいんじゃない
(中略)
でもいいんじゃない君があふれている」(「ダイナマイト」)


バブル崩壊による澱が沈殿し、ストレスに蝕まれた原因を理不尽と一蹴し、アイドルとしての打開策を愛に帰結させた。それが”嵐”になると、状況は一段と悪化する。


「一体何をしているんだろう
一体何を見ているんだろう
一体何にいきているんだろう」(「believe」)


格差や鬱などの社会的病魔に犯された人々は、その閉塞感によって呼吸困難に陥り、生きる希望さえ見出せない。アカルイミライを想像することすらできなくなった。

ポピュラリティの高いsmapと嵐は、こうした社会的背景を軽快なテンポとキャッチーなメロディに乗せて見事に歌詞に投影させ、ファンの同時代感覚とシンクロさせることに成功した。しかし、それだけでは当然ポピュラリティは獲得できない。ファンが望むのは、アカルイミライだ。それを、smapと嵐は異なる手法で紡ぎ出した。


「いつかもし子どもが生まれたら
世界で2番目にスキだと話そう
君もやがてきっと巡り会う    
君のママに出会った 僕のようにね」(「らいおんハート」)


「痛いくらいのキスをして せつないくらいに濡れた声
さっきまでの君から想像できなくて」(「ダイナマイト」)


「そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」(「世界に1つだけの花」)


smapは、「君」という言葉を多用することで、具体的な目の前の大切なモノを愛でた。(smapの使う「君」は、実生活における彼女や子どもなど常に特定の人物を想起させる。)つまり、1つ1つの小さな個人的な愛を紡ぐことで、過去のトラウマからの解放という”呪鎮”(「呪い」の除去)作用を果たす。一方の嵐は、


「今日もテレビで言っちゃってる
悲惨な時代だって言っちゃってる
僕らはいつも探している
でっかい愛とか希望探している
まだまだ世界は世界は終わらない
いまから始めてみればいいじゃない」(「A・RA・SHI」)


SUNRISE日本 変えてやる そう あきらめないで」(「SUNRISE日本」)


サクラ咲ケ 僕の胸のなかに
芽生えた 名もなき 夢たち
振り向くな 後ろには明日はないから 前を向け
(中略)
未来なんてすぐに変わる 変えてみせる」(「サクラ咲ケ」)


「窓を開ければ明日の空も晴れるはず
きっとそれが糧になる 今日も楽しみもれなく
いつも焦っていた あの日の僕に会えれば
想い 伝え 叫ぶさ”夢はでっかくこう描く”」(「きっと大丈夫」)


「そう 誰かがきっと待ってる 伝えたくって待ってる
どこまでも続いてゆく道で
明日に向かって輝く この夢ずっと追いかける
声をからして 進んでゆく」(「believe」)


デビューシングルの「A・RA・SHI」が象徴するように、彼らは、”大きな愛(でっかい愛)”を紡ぐことを使命としたグループである。その証拠に、彼らの使う「君」という言葉はsmapと異なり、非常に漠然としており、個人的な物語の中に、それを表象する人物を捜し出すのは非常に困難である。1人1人の幸福ではなく、「夢」・「明日」・「未来」を多用することで、時間軸を前方に固定し、不特定多数の前途を”祝福”(幸福を祈る)する大きな物語を創出したのである。


バブル崩壊・地域社会の断絶・モラルの低下などによって、底知れないあるいは回復不能なダメージを負った日本人の傷を治癒しようとしたのがsmapであり、高度経済成長に代表される成長神話に変わる新しい物語を謳ったのが嵐なのである。こうして、我々は彼らを求めた。そして、彼らはその求めに忠実に(あるいはそれ以上に)応えることで、アカルイミライを照らし出す唯一無二のアイドルとなり、アイドルを超越した存在となった。



ここで、もう一点見逃してはならないのが、その育成(成長)過程である。嵐をテレビで見て驚いたのが、smapに瓜二つだったことだ。カジュアルな出で立ち、自然体な様、個性的なメンバー。ここに、ジャニーズ戦略の本質が透けて見える。つまり、嵐自体がsmapロールモデルに、きわめて人為的かつ戦略的に速成した、ジャニーズの野心的なプロジェクトなのだ。ジャニーズは、smapの成功によって勝利の方程式を手に入れた。ジャニーズJrで踊り・歌の基本を習得させ、音楽番組で認知度を高め(バレーボールとのタイアップのその亜種である)、訒小平先富論顔負けのグループ内の一番人気をドラマに起用しその人気にあやかって二番手・三番手に経験を積ませる。そして、最終的にグループで冠番組をもち、個々人では得意分野でスペシャリストとなる。(中居君の司会業、草薙君の韓国語、キムタクの演技がその典型である)つまり、こうだ。料理と同じで、レシピさえあれば、どんなグループでも成功させることができる。嵐はその実験台であり、その試みは見事に成功した。もし第二の嵐が登場したならば、私の疑念は確信に変わるだろう。


しかし、恐ろしいのは多様性を失った種は絶滅するという生物の法則である。この方程式が完璧であればあるほど、ジャニーズは均質化してしまう。(私が嵐に感じた第一印象がそうであったように)均質化してしまったジャニーズは、新しいアイドルを生むことができなくなり、早晩別のプロダクションにその地位を剥奪されてしまうだろう。その危険性を当然ジャニーズ事務所も感知しており、関ジャニで地域性の高いグループを、新撰組リアンで奇抜さを付加し、多様性を確保しようとしているが、smap・嵐ほどの成果は得ていない。裏を返せば、正攻法のsmapや嵐しか成功していない。(そういう意味では、NEWSが成功する可能性はかなり高い)


ジャニーズ王国はまだ盤石からほど遠い。多様性を確保していないことしかり、不景気にしか対応できない”愛”をナショナリティの礎石としたことしかり、家族経営しかり。ジャニーズの未来は、嵐の先にある。