言葉を獲得するための迂回

この言葉は自分の言葉ではない。

お気づきの方もおられようが、内田樹先生の言葉を、さも自分の言葉であるかのように駆使しているだけです。
もちろん、私というフィルター抜きに文章を書くことはできない。
だから、私は誰からも制約されず、自分の意志で言葉を紡いでいる(はずである)。
気づきや視点は、完全なるオリジナルなもので自分で発見した(はずである)。
ところが、書き終わった頃に読み直すと、まるで内田樹先生のような文章になっているのです。

困ったことに、書き終えて、私は始めてその事実に気づくのです。
いい文章であればあるほど、知性は活性化し、アクティブな状態が到来し、あれもこれもアイデアが湯水のようにわき出る。
だから、書いている時は、そのアイデアを、火打ち石でふっと飛んだ火を燃やすように、素早く、的確につかむことに集中する必要がある。
そのアイデアはもちろん自分の内部からわき出たものです。
自分の中から知恵が湧くという興奮が、私を更なるハイパーアクティブへと誘い、集中力を飛躍的に高める。
知識というのは、教科書や学者が保有しているという価値観を義務教育で徹底して植え付けられてきた私にとって、自らの内側に知が存在しているという経験は、甘美で、一種の快楽でさえある。
それは、摩擦によって得られる一瞬の快感や短絡的な物欲をはるかに上回るものです。


しかし、それは確かに、自分の内側から引き出した知であることには間違いはないですが、オリジナルなる私固有の知ではないのです。
逆説的ではありますが、ここに、学びの本質がある。
この事実に気づいたとき、天啓に打たれたかのごとき衝撃が私の全身をかけめぐりました。
自分の言葉ではないことにへこたれてる場合ではありません。
それはむしろ歓迎すべき事態なのです。


人間の記憶力は、”聞く”という作業だけは定着率はわずか10%に過ぎません。
これに”見る”が加わると、定着率は20%に上昇します。
しかし、これでも8割は忘却しています。
この数字を反転させるには、”体験する”というアクションが必要です。
そして、最高のパフォーマンスを発揮するのが、自分で知識を”発見”した場合です。
その場合、なんと定着率は90%を超えるのです。

しかし、発見するには、引っかかりが必要です。
違和感ともいうべきものです。
全てのものに、感動する発見を味わっていては、いくら時間があっても足りません。
だから、私たちは多くのものを見逃して生活しています。
発見するには、自己の内側にいつ何時でもひっかかるようなホックを用意しておく必要があるのです。

しかし、そのホックは鍾乳洞のように、長い時間放置しておけば自然と形成されるかというと、そうではありません。
空洞の内部を変形させ、形づくるのは、知識です。
それは、素読の類で獲得する、自明の理としての知識です。
なんだかわからないが、3×5は15であり、徳川家康江戸幕府を開いたのです。
そうした問答無用な知識を、10〜20%という狭き門をくぐらせ、身体に沈殿させる。
(家康が江戸幕府を開いたなど、体験も発見もできないので、消去法的に見る聞くしか、知識の獲得方法がないことがわかるはずです)
沈殿した知識が、出会い頭に外界の刺激と交錯した時初めて”発見する”のです。

EDUCATE(引き出す)という語が、「教育」の語源であるのは言い得て妙である。
知の鉱脈は己の中にしか眠っていない。
ただし、石油や石炭が数億年前の生物の死骸が堆積したものであるように、知の鉱脈も知識の堆積なしには形成されないのです。

他人の思考回路をトレースするという作法は、知識を堆積するのに最も適している。
それは、レヴィ=ストロースが論文を書く際、必ずマルクスの本を読んだという事実と無関係でないはずです。
その回路が複雑であればあるほど、知の鉱脈は豊かになる。
そうして、しらずしらずの内に言葉を獲得する。
すると、器の中の言葉を栄養にして育った言葉が、身体の内側からにょきにょきと顔を出す。



教師の仕事とは、知識を堆積させることです。
種を植えることを決しておろそかにしてはならない。
教師の腕前とは、知識におもりを加重することです。
身体の奥底に知識が沈み込むように。
教師の醍醐味とは、知の鉱脈を探り当てることです。
散在した知識を拾い集め、目の前の生徒の経験とつなぎ合わせるのです。
そこに、教育は花開く。