天岩戸隠れ

先日、毎年開催されているらしい府教委主催の大学入試研修会に初めて参加しました。
補足すると、大学入試研修会とは、府立高校の進路担当者を一同に集め、府内の大学が入試制度の特色や変更点などを一斉講義する催しなのですが、はじまって30分もたたないうちに、この国の教育の有り様に強い懸念を覚えることになりました。


理由は二つあります。
一つは大学の問題で、もう一方は高校の問題ですが、コインの表裏のような関係であって、この二つの問題の宿痾は、知性そのものの劣化につながりかねない、日本人が知性から組織的に目を背け続けてきたことにあると思います。


まず、大学側の問題ですが、大学が、「学校」ではなく、「企業」になりつつあるということです。

大学入試研修会でのプレゼンテイターは、完全に教育者でもなく研究者でもなく、クールでリアルなビジネスマンたちでした。
私も一度その世界に身を置いたことがあるので、一目で分かります。

当然ながら、そこでは「私たちのやりたい教育」について語られることは一切ありませんでした。徹頭徹尾、お得な入試情報や、重箱の隅をつつくような入試制度の話ばかりです。

例えば、こんな風です。
「本校では、AO入試で合格した者に奨学金制度を準備しています」
「本校では、1学科分の受験料で、複数の学科にも同時に志願できます」
「本校の、得意科目入試では、昨年までは自己申告でしたが、
今年からは、得点結果から自動的に得意科目の点数を優遇します。」などなど。


お金をかけずに大学受験できることが最優先にアピールされ、
複雑化した入試制度は、やみくもに複雑化する一途をたどっています。


本来、学校というのはまず「教えたい」という人間がいてはじまるものです。
大坂懐徳堂のように、商人が身銭切って始まったり、
適塾なんかでも、儲けることを一切考えていない。
緒方洪庵が、医師としての使命だけを元手に、若者を育てたのでしょう。
このように、学校は「習いたい」というニーズがあって
「それじゃあ学校を作りましょう」という順序で作られるものではありません。
まず教える人が出てきて、学校は始まる。
全ての教育機関の起点にあるのは「教えたい」という強い意志だと思います。
だから、その意志を明確にするための「ミッションステートメント(旗印)」なるものが
最重要なはずなのに、(懐徳堂なら商人教育、適塾なら蘭学のようなもの)
企業が主体となってしまったため、マーケットのニーズに対応することが優先され、
ミッションステートメントについて、ついぞ語られることはありませんでした。
ニーズに応じて次々と新学部や新しい教育プログラムや入試制度を打ち出せば、
いずれ少数の巨大な大学だけが生き残って、中小の大学は市場から放擲されてしまうでしょう。
市場ニーズに合わせて自己形成してきたのだから、
当然、生き残った巨大大学はどれも見分けがたく似たものになります。

多様性のないところに、知性は宿りません。
これは知性にとって自殺行為と言っても過言ではありません。


入試制度について付け加えると、
学力を審査するための入試なのだから、フェアネスを担保すべきなのに、
入試に関する情報を知っている者は有利に、情報を知らない者は不利になるという
学力以外の力学が、合否に大きく作用する制度となってしまっています。
知性を測るはずの入試制度が知性を遠ざけているという皮肉な結果になってしまったのです。


皆さんは、入試がどれだけあるかご存じですか?

今では、どこの大学もAO入試からセンター入試まで10種類以上のメニューを備えています。
AO、公募推薦、指定校推薦、特別指定校推薦、一般A日程、B日程、C日程、D日程、後期、センター利用・・・
教師でさえ、その全てを網羅することは出来ないくらいです。

その内実は、ボーダフリーに限りなく近い底辺大学では、
合格者の6割以上が学力試験を経ずに入学しているという恐るべき実態があります。一方の難関大学では、ほとんどが一般入試で、その学力格差は開く一方でとどまるところを知りません。

現在の制度は、できるだけ入試制度の種類を増やして、
多様なタイプの志願者を受け容れるという「生物学的多様性」理論と、
できるだけ入試回数を増やして、志願者数を確保するという「地引き網」理論のアマルガムです。

どちらも掬すべき説明ではあるが、やはり入試制度はもう少しシンプルな方がいい。
制度ごとに難易度が違い、中には学力のかなり低い志願者をスクリーニングできない制度があります。
あまり学力が低い学生は入学後の授業についていけないし、「あんな子でも受かるの?」ということが口コミで伝わると大学のブランドイメージにかかわる。
「あんな子でも受かるの?」ということは、お金さえ払えば大学に合格できるという、まさに学力の完全否定に他なりません。

「学力そのものには何の内在的な価値もなく、情報こそが一次的に有用なのである」
という信憑が刷り込まれ、今や子ども達は、学びからの大脱走状態です。
その結果、当然子ども達は「地道にコツコツと学力を身につけること」よりも、
携帯電話からの情報収集に余念がありません。
ネットにない知識などはないと、大多数の高校生は本気で思い込んでいます。
当然の帰結として、授業や大人の言うことは軽視されるようになります。
だって、50分の授業を我慢しなくても、ネットでググれば、知識は簡単に手に入るのですから。


知性を活性化するためにどのような策を講じるべきか、について真剣に議論し、社会的な合意、コンセンサスを得ることが必要なのではないしょうか。
現場の人間の感覚としては、もう待ったなしの事態が到来していると思います。



一方の現場である高校の問題についてですが、
それは、否応なく大学の問題に付随するものですが、こういった現状の大学システムを肯定し、盲目的にシステムに追随していることです。正確に言うと、現場は、金太郎アメ化した大学ランキングに懐疑的なのは、事実なのですが、誰もはっきりと否定しないことで、ゆるやかに消極的に承認を与えてしまったのです。

高校は、いつまでも大学進学を唯一の評価指標として安住していてはいけません。
高校が社会の中で果たすべき役割は、子ども達の知性を活性化させることと市民的成熟を促すことです。

いつまでも、よく勉強した子には「人参」を与え、
怠るものには「鞭」を喰わせる「人参と鞭」的教育法ではいけません。
それが人間の知性を高める一番いい方法だと実に多くの人が信じています。
大阪府知事はもちろん、教師のほとんども無意識に合意している。
でも、子ども達の知性の檻を破るには、「人参と鞭」的教育法はもはや意味をなさないのです。なぜなら、私の授業でこんなことがあったからです。

これは思わず、授業中に唸ってしまった事件ですが、
偏差値をつけることができないようなクラスで日本史を教えていると、生徒達がノリにのって、学ぶことが楽しくて仕方がないという雰囲気がうまれました。(年に何回かそういう授業もあるのです。)
そこで、「日本史ってオモロイやろ?」と問いかけると、
ある生徒が、こういったのです。

「先生、あのなー、日本史の授業はおもろいけどなー、
勉強すればするほど、分からんことも増えるやろ、それが嫌やねん!!」

つまり、その生徒は、
新しい知識がもたらす、より広大で深遠な不安定な世界に住むくらいなら、
私は、知識を放棄し、自分が万能でいられる小さな世界にしがみつくといったのです。

頭をハンマーでガツンと殴られたような衝撃が全身を通り抜けました。
たぶん、私はその生徒の主張に、うまく答えを返すことができなかったと思います。
(実は衝撃が強すぎて、その後どんな授業をしたかあまり覚えていません。)



つまるところ、いくら鞭で叩き、アメを与えようが、
知性を拒絶されてしまっては、ただ大人のご機嫌を伺うだけの子ども達が量産されるだけです。

現に、子ども達は大人が考えているよりいろんなことを考えて、
大人に気を使っています。あるやんちゃな生徒はこんな告白をしてくれました。

「おれらは先生がやりやすいように、先生の望む役割を演じてんねんで。
例えば、ヤクザみたいな先生なら、絶対服従のフリをして、おだてる。
例えば、ノリのいい先生なら、ネタをふって、おもろい話をさせる。
でも、どうでもええ先生には、どうでもええ態度しかせえへん。
いつもいつも、悪さしたり、ふざけとるわけやない。
先生が、機嫌よう授業できるよう、協力してんねん。」

子ども達は、大人が望むようキャラを演じています。
知らず知らずのうちに、それが処世術と化し、
それ以外の生き方を喪失してしまった者もいます。
この子は、大人達に馬鹿でいるよう釘付けされてしまったのだろうな
と思える子どもも何人もみてきました。


良くも悪くも子ども達は大人の影響を受けて育っているのです。
それは、古今東西変わりません。
だから、変わるべきは大人の方です。
知性に対する激しい渇望を大人たちがもつことです。
それは果てしない道筋で、遠回りに思えるかもしれませんが、
後々、一番の近道だったことに気づくことになると思います。

そして、われわれ教師は、知性が最高速で運転しているときの、
全身を貫くような快感のお手本を示さねばなりません。
倒れんばかり前のめりになって授業しなければなりません。
生徒は、その姿を見て、天照大神の岩戸伝説のように、
思わず知性の檻の扉を恐る恐る開けることでしょう。


私自身は、アカデミック・ハイを求めて、
今年からできるだけ授業準備をしなくなりました。
そりゃあ、死屍累々の手痛い失敗もありますが、
その場、その場で、生徒との掛けあいで生まれるその再現不可能な一回性が
「生徒一人一人が、私はこの場所にいていいのだ、いなければいけないのだ、
ここで学ぶのは自分の宿命なのだ」という自覚を生み出すと信じているからです。
教える側と学ぶ側の、その緊張感なしに知的な高揚は訪れません。
アカデミック・ハイが降臨するとき、全能の神であるかのように、
その授業の一手先、二手先が読め、そこに生徒の動きがぴたりとはまるのです。
そうしたとき、私はもちろん、生徒も恍惚に酔い痴れるのです。
つまり、これがアカデミック・ハイの追体験であり、知性の活性化を担保するのです。
だから、自分が教えていることの意義と有用性と適用範囲について熟知していると嘯くような教師は「学ぶことを止めてしまった教師」であって、学ぶことを止めてしまった教師から学ぶことは(不可能ではないが、)たいへんむずかしいと思います。
日本の知的未来を少しでも豊かにするために、私も頑張っているのです。
(だから、最近授業するのが、本当に嫌なんです。まるで、今日打たなければ二軍行きが決定的なプロ野球選手のような悲壮感しかありません)


話がすっかり長くなってしまいましたが、
知性に対して敬意と好奇心を以て遇し、
知性を活性化させるための不断なる努力なしに、
この国を覆いつくす知的混迷から脱却する術はない
ということを最後に確認しておきたい。