カメラを止めるな

2018年を代表する映画と問われて、『カメラを止めるな』と答えても多くの人が納得するだろう。
流行語大賞にノミネートされたし、日本の映画界における最高権威であるアカデミー賞でも編集賞を受賞したくらいの作品だから、名実ともに2018年を代表する映画と言えます。

そんな映画にもかかわらず、ゾンビが嫌いという理由で食わず嫌いしてしまい、劇場で見ようともしませんでした。
DVDがレンタルされても、やっぱりゾンビが嫌いという理由で、一度手に取ったパッケージを棚に戻す始末です。
重い腰をやっと上げることができたのは、テレビ放送のおかげです。
結果から言うと、テレビの冒頭でも監督が言ってたとおり、ゾンビは出てくるけれど、ゾンビ映画ではありませんでした。
もちろん、ゾンビ映画に分類することも可能です。
でも、この映画の本質はゾンビではなく、冒頭37分ワンシーン・ワンカットでもない。(と私は思う)
シンゴジラ』と同系統に分類される隠れた社会派映画です。
シンゴジラ』は、ゴジラを通して官僚主義に陥って決めらない政治を風刺することで、日本の組織が抱える病理を描きました。
『カメラを止めるな』もそうした組織の病理を描いた作品の1つであり、その閉塞感を打ち破る快感も手伝ってヒットにつながったのではないでしょうか。
データはありませんが、『カメラを止めるな』の客層がサラリーマンだったならば、確証を得たと言えます。
というのも、『カメラを止めるな』が描く組織の病理とは「現場とマネージャーの乖離」だからです。
そんなことに興味がもつのはサラリーマンしかいません。


象徴的なシーンとして作品の後半に、作品より番組を強調し穏当に終わらせようとするイケメンプロデューサーの提案に対し、中年の映像ディレクターである主人公が「ダメでしょうが」と激昂する場面がありました。
そこでプロデューサーが囁いた言葉が、「そこそこの映像」でいいというNGワードです。
組織において、マネージャーは結果より形を優先することが多くあります。
なぜなら、マネージャーはコールドゲームなど求めていないからです。
とにかく、失敗しなければいいのです。
しかし、「そこそこでいい」と言われてモチベーションが上げるでしょうか?
実は、今まさに自分の仕事で同じ事態が起きています。
詳しいことは省きますが、ボスは形だけいい、(私がやっていることは高度すぎるから)そんな高度なことはしなくていい。
クオリティーを下げるよう圧力をかけられました。
私たちのチームのモチベーションが地に落ちたことは想像に難くないでしょう。
3人のチームですが、みな不貞腐れしまい、中学生だったら不良になっていたことでしょう。
マネージャーがはしごを外すようなことをやってはならない。
なぜなら、現場の人間は手を抜くことができないからです。
主人公のディレクターも最初は、この企画は無理だからと断ったり、出演者を忖度しまくって自我を押し殺していました。
しかし、撮影しているうちにあの名言「撮影は続ける。カメラは止めない!」が飛び出したり、プロデューサーにたてつくまで本気になっていきました。
たとえ最初は興味がない仕事でも、仕事をやっているうちに本気にもなるし、好きになる。
誰も、本気の仕事をそこそこにはできません。
イチローに凡退してこいと指示できますか?

ではなぜそこそこでいいなんてマネージャーは言えるのでしょうか?
答えは簡単です。
マネージャーが現場のことを知らないからです。
私のボスが現場にくることはほとんどありません。
当然ながら、現場には大小さまざまなトラブルがちりばめられています。
ところが、マネージャーは未然に防がれたトラブルを知りません。
だから、終盤のシーンでトラブル続出の撮影現場をよそにクセの強い女プロデューサーは、こともなげに「特に大きなトラブルもなく、良かった」とぬかし、飲みに繰り出すことができてしまうのです。
ただし、現場がどれだけ現場の実情を伝えても無駄です。
マネージャーはトラブルが起きるまで目を覚まさないからです。
でも別にそれでいいのです。
マネージャーは現場の邪魔さえしなければ。
カメラは止められないし、カメラを止めてはならない。

本気の俺を止めるな。