『BECK』

学校の階段の壁に、「Don't look back in anger」と鉛筆で落書きされていた。普段なら問答無用で消しゴムのカスにしてしまうところなのだが、この時ばかりは、そんな気になれなかった。いや、そればかりか、その場に釘付けとなり、しばらく呼吸することさえ忘れてしまった。それは、とても大切なもので、学校のルールだとか、教師の一方的な価値観で断罪すべきものではないと感じた。僕はその落書きを見て見ぬふりをすることに決めた。その落書きは1ヶ月ほど放置されたままだが、他の教員も同じものを感じたのだとしたら、教師ってやつも棄てたもんじゃない。

きっと、この落書きをした生徒は、僕が初めてOASISの音楽に出会ったときにあじわったのと同じ衝撃を経験したのだろう。聞く前と聞いた後で、世界が一変してしまうような衝撃。きっと、この落書きをした生徒は、この衝撃を一生忘れない。僕がそうであったように。それは、お金なんかで決して買えない特別で、神聖な何かで、いつでも経験出来るわけではない。人生のうちで、最もセンサティブなある時期にしか経験出来ない特別な神様からのプレゼントに違いない。僕は、すごくシンプルに、その落書きをみて、嫉妬したのだった。あの衝撃を味わうことができる高校生に。


音楽には、人を成熟させる何かがある。僕自身、どうしてだかよく分からないがそう直観していた。だから、もっとも多感だった大学生時代は、狂ったように音楽を聴きまくっていた。何百枚もCDを買い、レコード店でバイトしてみたり、ライブハウスに足繁く通った時期もあった。そうした人を成熟に導く音楽に出会えた時の感動は、くやしいけど、言葉では表現できない。はっきりと言えることは、出会ってしまったら別人になってしまうということだ。悔しいけどもう二度とあんな経験はできない。なぜなら僕はそうやって成熟してしまった大人だから。


きっと「BECK」とは、そういう映画だと思う。だから、僕はこの映画をみて、あの落書きを強く思い出したんだろう。