冬のヤワタ

冬が到来した。

冬の到来を告げる今にも砕け散ってしまいそうな繊細な旋律をそっと掬い取ると、私のハートビートと混じり合って、涙のシンフォニーが奏でだす。


その旋律は、とても遠くの其方から聞こえてくる。
しかし、実はすぐそばであることはわかっている。
彼岸と此岸の境界を行き来するメロディー。
否応なく何ものかを想起させるが、それが何なのかはわからない。
過去に失ったものであることだけはわかるが、それが何なのかはわからない。
未来に向かうには、その何かを振り払わなければならないが、それが何なのかはわからない。


その正体を暴くためには、物語に耳を傾けなければならない。
その物語を語り終わるのを待たなければ、それが何なのかは決してわからない。
長い時間が必要なのだ。あせってはいけない。

自分自身にしっかりとそう言い聞かせ、のべ20時間を超える物語を紐解いた。
そう、時季外れの「冬のソナタ」の開演です。



そもそも、なぜ今更「冬のソナタ」なのでしょうか。
自分でもその理路は説明できません。
直観的に、今観なきゃいけないような気がしたのです。
身体が勝手に反応して、スゥーとTSUTAYAの韓流ドラマコーナーに吸い寄せられて、ピッピッピッピッピッピッピと、いつのまにか全7巻をレンタルしていました。

けれども、身体の訴えに耳を傾けて失敗することはありません。
そこには、なにかしらの必然性があるのです。


結論から言えば、「冬のソナタ」は“トラウマ”に絡め取られたユジンの救済譚であり、ユジンはまさに私の教え子そのものでした。冬ソナは、指導に頭を悩ます私の教え子救出マニュアルのようなものになりうる可能性を大いに秘めた物語だったのです。



"トラウマ”とは、何が起きても、誰に出会っても、「あのできごと」に帰趨的に参照されて、その意味が決まり、"トラウマ”とまったくかかわりのない、「新しいこと」は決して起こらない。
そのように過去に釘付けにされることが「トラウマ」的経験です。
つまり、忘れることができないという一種の記憶障害が"トラウマ”なのです。

ユジンが忘れることが出来ないのは、お分かりですね。チュン・サンです。
全ての行為、出来事、シンボルが、チュン・サンに帰趨的に参照されて、その意味が決まっている。
だから、冬ソナでは何度も同じような事件が起きる。
二度の交通事故、二度の「入院」による関係の断絶、そして繰り返される二人の偶然の出会い(一度目はチュンサンとして、二度目はミニョンとして、三度目はチュンサンとして、四度目は…)
しかし、本当はあれは全く異なる事件です。ユジンというフィルターを通して物語が構成されているため、それらがユジンの忘れることの出来ない"トラウマ”の世界である高校時代に帰趨するのです。
悲劇の最中のユジンの表情を良く見てほしい。
身体はすっかり中年のオバさんなのに、その瞳は少女の頃と同じになるのです。
忘れられない体験が、ユジンの精神を、"トラウマ”の高校時代に釘付けにしてしまっているのです。


意外に思うかも知れませんが、"トラウマ”というのは、何も児童虐待や災害やいじめなどの暗い過去だけに居着くのではなく、(圧倒的に多いが)ユジンのように甘美な思い出、いわゆる個人史における「黄金時代」に居着くこともあるのです。

翻って、我が教え子を見るに、彼らも過去の自分に捕らえられているのです。つまり、"トラウマ”を抱え込んでしまっているのです。
彼らの行動の基準は、「やっても無駄なことは一切しない(無駄な努力はしない)」・「やったら何くれる?(報酬)」に収斂されています。
社会的に支配的なイデオロギーである成果主義・合理主義に骨の髄まで犯されており、そうしたイデオロギーに依拠してアイデンティティを形成してきたため、最小限の努力で最大限の成果を得ることに己の知的リソースを使い切る姿勢が染みついてしまっているのです。


だから、忘れようにもわすれることができない。なぜなら、そうした生き方以外を知らないからです。彼らに課題を与えると、その背後ににょきにょきと"トラウマ”が現れる。
「無駄な努力はしない」・「やったら何くれる?」の問答が始まる。
その問いが、自分自身の成長を妨げていることは分かっているはずです。けれどもやめることができない。
彼らも苦しんでいるのです。けれどもやめることはできない。
なぜなら、忘れることができないからです。


ユジンは、ポラリス(チュンサンの思い出北極星からネーミングしたユジンの会社)を退社し、チュンサンを棄てる形でフランスへ留学することでなんとか、トラウマを撃退することができた。それは、つまり、チュンサンを忘れることができたということと同義です。ユジンはきっと、私が今あるような人間になったことについて、誰にもその責任を求めなくなった。だから、別人となってチュンサンと出会うことが出来た。


生徒諸君に必要なのは、「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。私自身にさえ求めない。」と体得することだ。
だから、高校という長い時間と同時代的な物語と半社会的な空間が必要なのだろう。


冬が終わる前に、忘れなければならないことがある。