お稽古ごと

50m自由形38.37

100m個人メドレー1:50.68


これは、先日のマスターズ水泳の私のタイムである。
ごくごく平凡な記録にすぎないが、2年前までは背泳ぎもバタフライも泳げなかった私にとっては、輝かしい記録だ。


50m自由形は、緊張のせいか、カラダがフワフワし、水をうまくとらえることができない。
しかし、それでも自己ベストを更新し、前回のマスターズ水泳ではできなかったクイックターンに果敢に挑み、ほぼ完璧に成功することができた。

100m個人メドレーは、バタフライがスタートした直後に、他の選手はもうすでにはるか前方にいた。平泳ぎを始める頃には、皆平泳ぎを泳ぎ終わっていて、結局、20秒近く離されての圧倒的な敗北だったが、自己ベストを10秒近く更新することができた。


シンプルな感想に過ぎないが、この感想に年をとってお稽古ごとを嗜む意味が凝縮されていると考えている。
1つは、緊張するということである。
年をとると、知らず知らずのうちに自分の経験という檻に閉じこもり、挑戦しなくなり、どんどん保守的になっていく。
失敗を避け、安全地帯を渡り歩いているのだから、良くも悪くも緊張することがほとんどなくなるのだ。
40歳という年齢は、意図的にこのコンフォートゾーンから脱出する機会を作らなければ、もはや緊張することすらできない年齢なのだ。

2つ目は、負けることが許さされている、あるいは失敗することができるということである。
本業の仕事の方では、ミドルリーダーなどともてはやされ、マネージャー的な職務を預かる年齢だからこそ、失敗は組織に大きな損失を与える。
自分だけのミスではすまないからこそ、うかつに失敗はできない。
だから、前述したとおり、失敗を避ける→安全地帯→緊張感なしという無限ループに陥る。
しかし、お稽古ごとではミスしても誰も咎めない。
負けてもペナルティはない。
だから挑戦することができる。

われわれは、「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になること」を、スラムダンクを通じて学んだ世代だった。
お稽古ごとはそのことを思い出させてくれた。

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私自身の場合は、負けることで学んだことは謙虚さだ。
自分の通うスイミングスクールの中では速いから、スクール生からおだてられ、いい気になっていたが、マスターズの惨敗で鼻っぱしを見事に折られ、井の中の蛙に過ぎないことを痛感する。
「まだまだだ、もっと頑張ろう」という前向きな気持ちになれるから、成長することができる。
本業でも、ミドルリーダーとしてちやほやされることで、少なからず傲慢かつ尊大さに蝕まれていく。
そうしたうぬぼれに侵蝕される前に、お稽古ごとを通じて自分の小ささを自覚することで、謙虚でいられるのだ。

3つ目は、自分の限界を超えるには、自分の力だけは超えることができないということだ。
練習で何十キロと泳いでも到達することができなかったタイムを、試合になると更新することができるのは、我ながら不可思議である。
試合という場は潜在能力を引き出す舞台装置であり、こうした場の力や、コーチの力なくしては成長することは容易ではない。

 

つまり、緊張感のある環境のなかで、挑戦することで、人は成長する。
それはいくつになっても変わらない。
これが、私がお稽古ごとを続ける理由である。